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新年あけましておめでとうございます。相変わらず更新をさぼっております。年賀状・虚礼撤廃活動をひとり続けて既に十年以上のキャリアになりましたが、去年・今年と年賀状が来てしまいました。ああ。
東京は気持ちよい冬晴れ。ラム肉のしゃぶしゃぶの忘年会から帰宅。
オカルト的な気味のある言説には少し抵抗が…というようなことを言った舌の根が乾かぬうちに、何となく自分でもオカルト風の言説を生産してみたくなってしまう。言葉にすると陳腐なのだけども「日々の小さな充足感の積み重ね」がボディーブローのようにじわりじわりと効いてくるのではないか、というのが個人的な仮説である。偏見としかいいようがないのは重々承知ながら、サラリーマンが昼食代をケチってコンビニでおにぎりとお茶を買って、自分のブースで半ば仕事しながら、さっさと食事を済ませたりしていると、いずれよくないことが起きるような気がする。逆に言えば、1000円くらい払っても、ちゃんと美味しい料理を出す店でゆっくり食事をとっていた方が、短期的にはお金も時間も無駄なように感じたとしても、そうしたちょっとした充足感の蓄積というのは案外馬鹿にならないし、「いずれ」成し遂げたいと思う大きな充足のためにも、そうした日々の小さな充足をまずはキープすることが必要なのではなかろうか。
東京は電車のダイヤが乱れた一日。少なからず、自分自身にも波及した。今日はちょうどいい寒さで、これくらいならコートも不要。ただ、会社や飲食店では暖房が効きすぎていて、顔がのぼせてしまう。いつもより少し早めに退社。
内田先生の「才能の枯渇について」を読んで思ったことなど。はてぶの反応を見ると賛否両論あって、自分個人の反応としてもそういう気分である。全然関係ないような、あるような話なのだけど、この記事を読んで整体を連想してしまった。整体についても理論なりモデルというものが当然あるわけなのだが、内田先生のこの論と整体のあり方は似ている。経験的知見として有効である「らしい」という点と、見ようによっては「オカルト」と揶揄されてしまうあたりに同型性を感じてしまう。この種の、現象としてはどうもおぼろにある種の規則・構造があるようだけど、既存の科学・モデルの枠組みできっちり説明できない類のもの、との接し方は難しい。考えてみれば珈琲にもそういう気味がある。 大学の体育の先生が、良い人なのだけど「気」がどうのこうのという表現をする人で少し困った記憶がある。どうも身体系の人は身体実感が確としてあるせいか、理論・モデルとしては粗雑な、オカルト的な事柄に傾斜しやすいように思う。もちろん逆のケースもあって、内実はともかく理論・モデルとしての体裁がきちんとしていないと一切受け入れないというもの。これはいわゆる論文生産を目的とする通常科学のマナーである。 村上春樹が、自分の中の毒あるいは獣をおびき出すためには身体が健康でなければならないという旨のことを書いていた。例えば、芥川とか太宰はそうした自分の毒に自家中毒してしまったか、自身の中の獣に喰い殺されてしまった、と。そこで思うのは、これは逆も言えるのではないということである。身体を鍛えようと思ったら、頭がちゃんとしていないといけない。それが実際にオウムで起こったことだと思う。つまり、頭があやふやな内に強烈な身体実感を「ばーん」と叩き込まれると、外から見れば、かなりたわいもない理論・モデルを信じ込んでしまう危険がある。そうすると結局、頭も身体も大事という話になって、これは昔からよくいう文武両道に他ならない。なかなか良くできているなあ、と思う。 何だか才能の話からそれてしまったが、才能について言えば数学の分野はわりと個人主義的である。そもそも、数学的才能が直接に世のため人のために役立つというシチュエーションがあまりない。(純粋)数学をやっている・いた人の感性としては、数学が直接にせよ間接にせよ、共同体とか隣人の幸福の増大のためにあると言われたら奇妙な気分がするだろう。幾分かは欺瞞の要素が含まれているかもしれないけれど、「ひとりの個人としてわかりたい」という欲望に支えられていると思う。他人にわかってもらうことはできない。わかるのは常に自分である。理解欲というのは畢竟孤独なものである。そういう人の間の人間としてではなく、ひとりの人としての才能というものはありうるだろうし、あるべきだろう。端的に言って、そういう才能を認めない社会は貧しい。むしろそういう社会こそが何らかの返礼義務を怠った罰を今後受けるような気もしなくもない。
東京は雨。みんなは寒い寒いというけれど、自分としてはまだ快適な部類の気候だ。今年の夏のあの「暑さ」に比べればまるで天国。そういえば今年の一字は「暑」だったらしい。そんな国には住みたくない。
今日は久しぶりに、朝からずっと静かにコードを書いてすごす。わりあいはかどり、いつもの時間に帰ろう…と思っていたら人につかまって30分ほど遅く帰宅。夕食は牡蠣のグラタン。このところグラタンをそれなりに作っているけれど、あまり満足のいくものはできていない。ハインツの缶詰ホワイトソースでは限界があるのだろうか。
東京は晴れ。まだそんなに寒くはない。というか快適だ。朝食はホットミルクとみかん。このところなぜか同時に3つのプロジェクトに関わっていて、なかなか忙しい。ジョエル・スポルスキーはプログラマに同時に複数の仕事を与えてはいけないと書いているが、見事にそれに反している。おまけにいまの職場では夕方になると掃除機の音が鳴り響く。いつもより30分ほど残業して帰宅。
偶然に関する本をこのところ読んでいるのだけど、いまひとつ痛し痒しでしっくり来るものがない。しょうがないので自分であれこれ考える。漠然と、関係があるようないような論点だと思うのだけども、数学を神さまが定めたこの世界の秩序であると思うか、ただのモデリングのためのツールと思うかによって、相当に世界観が異なるだろう。僕の観察では、人は暗にどちらかの立場に属していて、純粋数学者とか哲学者は前者の傾向が強いようである。それに対して、応用数学、工学に携わる人は後者であることが多い。 そういうわけで、偶然を考える際にも、世界の形而上学的基本原理として偶然があるのだー!と思う人と、単なる世界解釈・モデル上の方便と思う人とで意見の食い違いが生じる。ちなみに個人的関心としては、後者の、幾分斜に構えた「モデルとしての偶然」にある。必然性とか偶然性というのは、世界や世界内の対象に関する性質ではなく、モデルの性質を表す語だと見れないであろうか。もっともここで、モデルというのも世界内の対象ではないのか?と聞かれると困るのだけど、そこは措くとして。 素朴だが、偶然性を組み込んだモデルが、有用で如何に対象をうまく説明するからといって、そのモデルに対応する現実の対象が偶然的であるとは必ずしもいえないし、同じことが必然についてもいえる。必然性を近似して表現する偶然もあれば、偶然性を近似する必然性だってあるだろう。どちらかが正しくてどちらかが間違っているということはなくて、それは観察の粒度設定に依存するのではないか。おそらく自制すべきなのは「究極的に」その対象が必然的なのか、あるいは偶然的なのかと問うことだろう。 いまどき、必然モデルしか受けつけない人はそうそういないとは思うけれど、神さまがこの世の物事のすべてを律していると思っている人には、偶然は受け入れがたいモデルの性質かもしれない。そもそも、偶然を組み込んだモデルによる世界解釈は神に対する不敬である、と思っている人だっていそうな気もする。してみると必然モデルには人を惹きつける何らかの要因がありそうである。逆にいえば、偶然を組み込んだモデルには人が嫌う何かがある。そして最近、禅のようなものにも多少関心があるのだけど、禅的立場からすればそもそも「世界とそのモデル」という発想が救いがたい、と映るのだろうな。ところで、梵我一如もウィトゲンシュタインの「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」も同一の悟りについて述べたものではあるまいか、と過去に1万人くらいの人が思ったに違いない。
東京は洗濯日和の晴れ。朝食は珈琲とパン。やはり冬はいい。数週間前からにわかに仕事が少し忙しくなり、疲れ気味。それでも19時くらいには帰っているので、世間的にはヌルいのかもしれませんが。今日は水泳と温泉は明日にとっておくことにし、洗濯・図書館・スーパーへの買出しをこなす。
技術的な巧拙とは直接には関係なく、音楽には「聴かせる」演奏とそうでない演奏があることに気づく。言い換えると、その先が聴きたくなる演奏とそうでない演奏。考えてみれば、これは映画でも小説でもゲームでもいえる。この「先へ先へ」と聴き手・読み手を牽引する力が芸なのだろうと思う。
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